札幌新陽高等学校
国語科主任 櫻庭 彩寧 先生
北海道札幌市出身。1994年生まれ
「書く」ときいて、何を連想するでしょうか。「先生が黒板に書いた内容をノートに書く」「友人に手紙を書く」「作文を書く」「宛名を書く」「落書き」……。自分のために「書き残す」ものもあれば、他者に対して感情を伝える、情報を伝える手段を連想するでしょう。
スマートフォンやパソコンが普及した今、実際に「手書き」で何かを書くことは少なくなってきました。過去、友人に手紙などでやりとりしていたものも、SNSを使えば時間をかけずに連絡が可能です。また、レポートなどもパソコンを用いて打ち込めば、仮に誤っていたとしても一瞬で修正できます。年賀状で丁寧に書いていた宛名も、事前にデータを作っておけば綺麗に印刷できます。便利になればなるほど、手を使って「書く」機会は減りました。
手書きが無くなることを憂う(思い悩んだり、心配したりする)声はあります。手書きであったからこそ伝えられた感情や、手書きならではの味、親やすさや温度感、あるいは漢字をド忘れしにくいなど。
ただ、この便利になった世界で、これらが全て失われてしまったでしょうか。先に書いたように、SNSの普及により連絡をとることは容易になりました。友人との距離は近くなり、世界もとても近くなりました。相手が「物理的には遠くとも、近くにいるもの」として認識することができるのです。
では、私たちは何を気をつけなくてはいけなくなったのか。私が考えるのは「伝え方」です。「SNSは気をつけろ」耳にタコができるくらい身近な大人から聞かされているでしょう。何気なく打った言葉で他者を意図せず傷つけてしまったり、意図しない思いが伝わってしまったり。SNSが身近になる前は、物理的に距離の近い人とのやりとりであったために、お互いに気心がしれていて、メッセージを誤って認識することは少なかった、もしかするとその機会すら稀であったかもしれません。今はたくさんのやりとりを、距離の遠い人とも行えます。誤った認識のままやりとりが行われ、いつの間にか取り返しのつかない問題になっていた、なんてこともあるでしょう。それを防ぐために、「優しい言葉を使いましょう」と教えられた人もいるのかもしれませんが根本的な解決にはなりません。デジタルであったとしても「言葉を書く=紡ぐ」時には、自分の思いや考えを適切に伝えるために、自身が責任を持って「言葉を選ぶ」必要があります。